2018年03月24日

松浦武四郎の道 旭川〜新得間

松浦武四郎が蝦夷地を北海道と命名してから150年となる今年、旭川から新得まで約110キロの古道を4週連続4回に分けて歩くイベントが行われています。
https://hokkaido150.jp/mirai/2018/02/28/post-2469/
まずは第1回の神居古潭〜上川神社間に参加してきました。いまこの区画をあえて歩くことはまずないと思いますが、明治31年に鉄道が旭川に延びる前、旭川から奥に向かう開拓者たちはすべて神居古潭を歩いて通ったわけで、神居古潭をどう越えたのか非常に興味のあるところです。
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神居古潭神社前に7時30分集合。ちょうど芦別行きの路線バスで行ける時間でした。食事処の遊舎さんがミーティングに場所を提供してくださりました。
集まったのは事務局のトカチルゥチシを歩く会の山谷さん、郷土史研究家の高橋基さん、ほか共催の十勝岳ジオパーク推進協議会から1名、旭川市教育委員会から1名、上富良野町広報担当1名、メディア関係3名と私の計9名で、何と一般の参加者は私だけでした。
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実際に歩いたのは7名。富良野方面に入植した人も、距離的に近い空知川コースをとらず、歌志内まで鉄道で来たあと、旭川の神居古潭まで迂回しているわけですが、たしかに難所とはいえ、そう困難ではない道であるように思いました。
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松浦武四郎がどこを通って旭川に入ったかは一大問題のはずですが、実は近年まで詳細なルート解明がなされていなかったようで、残された記録の解釈によって、いくつかの説があるそうです。今日の検証によって、ルート推定の確度が高まることを期待します。
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春志内トンネルの脇からいよいよ山越えの区間に入ります。この区間はペンケアソナイ山道と呼ばれ、1858年に松浦武四郎がアイヌの案内で通った後、1886年に上川仮新道として開削され、岩村通俊や永山武四郎も歩いたと言われています。
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山道を抜けて台場からしばらく国道を歩き、忠別太大番屋跡の碑を見学。上川地方で最初の和人の建物と言われ、松浦武四郎の記録にもあります。
その後、ペペツと称された美瑛川下流の堤防をしばらく歩き、神楽岡にあったというクーチンコロ宅跡、シリコツネ宅跡を偲びつつ、上川神社へ。約23kmの道のりでした。

松浦武四郎は当時全道を股にかけて活躍していたアイヌの人たちを案内人としてこれらの道を歩いていたわけで、何百年という歴史のある道でもあります。鉄道や高速道路は百年後どうなっているかわかりませんが、松浦武四郎の歩いた道は人類が絶えない限り今後も残るでしょう。私たちにはこれらの道を伝えていく責任があります。
しかし、これまで定説とされてきた古道のルートやアイヌ語の由来も、実際に歩いてみると疑問が多いと言います。山谷さんは、「定説は常に検証が必要であり、検証しないのは将来の世代から見れば今の時代の怠慢」とおっしゃっていました。その言葉どおり、アイヌ語の由来や地形を丁寧に読み解くことで、これまでとまったく違う見方で旭川を見ることができた一日になりました。

この日の模様は十勝毎日新聞が伝えています。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180318-00010001-kachimai-hok
posted by onitoge at 00:07| Comment(0) | 日記